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アニメの未来は、作画なのかCGなのか。

2019年はアニメーションの動向を見るに重要な年となった。ディズニーのアニメーション作品4作が公開され、その3作品が歴代のアニメーション興行収入ランキングのトップ10に入った。

その4作とは、『ライオン・キング』、『アラジン』、『アナと雪の女王2』、『トイ・ストーリー4』である。いずれも続編かリメイクという異色の組み合わせではあるが、この4作がもたらした興行収入は、なんと合計約5,600億円ということで、明らかに怪物コンテンツである。

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Wikipedia 歴代アニメーション 興行収入ラ ンキング

厳密にいうと、前者2作品はアニメーションのカテゴリーではなく、実写に属している。演じる役者の肖像や特徴が直接的にキャラクター・デザインや演技に反映されていれば、作品は実写映画とみなされることもあるかもしれない。実際、『アラジン』はこの基準に照らし合わせる必要もないほど、問答無用で実写映画だった。

しかし、話がややこしくなるのは『ライオン・キング』の立ち位置だ。製作したディズニーは、本作品を「実写」と位置付けている。しかし奇妙なことに、本作はゴールデン・グローブ賞において、アニメーション部門にノミネートされていた(※1)。一方、アカデミー賞は本作をアニメーション部門にノミネートせず、映画一般のVFX(視覚効果)のカテゴリーに推挙している。興行収入ランキングにおいても、『ライオン・キング』はアニメーション部門と実写の両方にランキングされることもあれば、実写のみのランキングの場合もあり、いまだに議論は収束を見せていない。

もっとも、アニメーションの定義に従うとすれば、『ライオン・キング』は、1カットを除き全てCGの技術で人工的に作られているし、実写映画の俳優たちが声優として演じているとはいえ、彼らの決定的な特徴がキャラクター・デザインや演技に表されていない以上、アニメーション作品ということになるだろう。

ではいったい何故、ディズニーは『ライオン・キング』を実写カテゴリーに据え置いたのだろうか。

この問いをきっかけに、本稿は、まず1930年代後半に確立されることになるウォルト・ディズニーの「リアリズム」の追求と、今日に至る技術的革新と環境的要因を縦軸に置きながら、その過程で生じた「写実性(フォトリアリズム)」が求められる傾向を議論の横軸に重ねる仕事を行なう。

そして次に、本稿はこの「リアリズム」の追求が、諸事情から日本では歴史的に異なる道筋を辿ってゆく文脈を追いかけて、それが「写実的」な表現から、より「実際的(アクチュアル)」な表現へと姿を変えていたことを想起する作業を行ない、「アニメ」のアクチュアリティに秘められた創造的な可能性を模索してゆく。

ディズニーの3Dアニメーション作品は日本でどう評価された?

まず、ディズニー作品の日本国内での興行成績はどうだったろうか。先の4作品を上位から並べてみる。

第1位『アナと雪の女王2』は興行収入133億円。やはり日本ではトップ・コンテンツだ。『アラジン』は意外の歴代22位で、120億円を叩き出している。『トイ・ストーリー4』は興行収入100億円。『ライオン・キング』は興行収入66億円と、100位以下だ。

単に日本と海外との興行成績やビジネス規模を比較したところで本稿の主旨から外れるため、ここでは海外の評価から大きく逸脱した『ライオン・キング』だけに注目してみたい。海外と違い、『ライオン・キング』の日本での成績は4作品中、最下位だ。

私たちはこの数字が伝える事実に、おそらく気持ち的に「納得」する。

実写に切迫するCG技術で作られた映像は、私たちがアニメーションに期待する特有の表情やアクション、そして質感からかけ離れていたからだ。

ここまで写実的になってしまうと、ディスカバリー・チャンネルよろしくアフリカのサバンナの食物連鎖を固定カメラで撮ってから編集室でカッティングしてアフレコすればコト足りるのでは(?)と言いたくなってしまう。

 

実際、北米市場においても極端に写実的な『ライオン・キング』の映像はキャラクターの感情を描けていないとか、観ていても情感が沸き立たないといったふうに、少なからず批判に晒されていた。

北米でもこのような批判が表出するからには、ディズニーがここまでラディカルに3DCGが生み出す人工的な映像を写実的な実写映画のポジションにまで近接させた理由を知るヒントを得るため、そして日本での事情へと接続させるために、ここで一度CGについておさらいしておきたい。

3DCGの系譜

まず用語としての「CG」について。コンピュータ・グラフィックスはコンピュータを使って生成された画像の一般を指す。つまりCGは上位概念であり、その下位に3DCGや2DCGといった表現の様式が帰属する。

そのため「CG」という単語は本来、区別されるべきだが、例えば2DCGはWebアニメか2DCGデザイナーのように一枚絵を電子的に作成することを意味することがほとんどであるため、単純に3DやCGとして略式に表した場合でも3DCGと同義である場合が通例である。

さて、ここから非常に駆け足になるが、北米のアニメーション業界において、この3Dの技術が「事実上」のトレンドとして台頭した経緯に触れてみるとすると、わりと環境的な要因に端を発していることがわかる。

1980年代、ディズニーのアニメーション部門は業績低迷中だったが、当時の最高経営責任者マイケル・アイズナーとジェフリー・カッツェンバーグは90年代初頭までに、ディズニーの業績を立て直すことに成功した。

しかし1994年に彼らは衝突し、カッツェンバーグはディズニーを去ってドリーム・ワークスSKGを立ち上げることになる。この際、カッツェンバーグが古巣の2Dアニメーターのヘッドハンティングを率先して行ったことで、アニメーター確保の競争が激化し、そもそも高給だった2Dアニメーターらの給与は高騰していった。

ここで注目を受けることになったのがCGアニメーションである。しかしすでに、マイケル・アイズナーが最高経営責任者に就任した80年代中盤、ディズニーは予算が高騰する2Dアニメーションを補完するアイデアとしてCGの可能性を模索していた。その立役者はピクサーのCG部門のジョン・ラセターである。やがてディズニーとピクサーは1995年、『トイ・ストーリー』を公開し、約380億円の興行収益を叩き出した。

もちろん、アイズナーらが立て直したディズニーの2D手描きアニメーションはさらに強力だ。オリジナルの1992年の『アラジン』は530億円、そして1994年『ライオン・キング』は1,000億円を超える興行成績を残している。それでも製作陣は、2Dアニメーター不足と給与の高騰という課題に直面しながらCGで380億円の売上を作れることに安堵したことだろう。

この状況を後押しするように、2000年代初頭、再びディズニーの収益が低迷した。自然な流れとして、2006年、ディズニーはピクサーを買収。したがって、2D手描きアニメーションの運命は終末に向かっていく。

と、ここまでは3Dが選択肢として浮上した背景に触れてきたが、まだ歴史に記されていない事実として、この時、まさに活躍の場を見つけはじめている2Dアニメーションの新しい息吹が生まれていた。「カットアウト・アニメーション」である。この手法は作画アニメーションと同等か、ストップ・モーションを含めばそれ以上に歴史のある手法で、日本では大藤信郎の『馬具田城の盗賊』(1926年)が初期の代表的な作品である。カットアウトアニメーションについては、次回以降の論考で詳らかにしていきたい。

いずれにせよ、CGは環境的要因に応える形で台頭してきたのである。

アニメ制作に増え続ける3DCG

日本ではどうだろう。TVシリーズや配信系の独占コンテンツにおいても、以前にも増してアニメ作品にはより多くのCGが使われている。昔から続く長寿番組を除いて、CGが使われてない作品のほうがむしろ少ないかもしれない。

あくまでもケース・バイ・ケースという条件付きで、日本のアニメでCGが使われる状況と目的を述べてみるとする。

まず、キャラクター造形が三次元空間に及ぶため、ボリューム感が追加される。奥行きのあるキャラクター・モデルが高いフレーム・レートで立ち回るスムーズなアニメーションが作れるため、動きが「リアル」になる。

そして、実写的な撮り方の手法であるモーション・キャプチャによって収録された演技に、キャラクター・モデルを置き換えやすいという意味で、演出的な意図の明確化と、制作の効率化といった観点でも3Dが好まれる場合がある。例えば、絵コンテやアニマティック(Vコンテ)に3Dキャラクターを配置すれば、カメラに対して演出や監督が求めるポージングがつけやすい。

次に背景だ。3D環境で作られた背景では、キャラクターとその場にある物との位置関係の整合性を高めることができ、作画主体の演出に生じがちな「抜け漏れ」リスクが軽減される。さらにアクション・カットでの3D背景といえば、旧来のマルチプレーン以上の多重スクロールが要求されるような、より没入型の視聴体験の需要に応えられるのは、言わずもがなである。

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©︎『鬼滅の刃』アニプレックス

最後に、小道具(プロップ)や、メカを含む大道具も3Dで作る利点がある。とりわけアニメの長所の一つであるメカ・デザインでは、パースがついた時のメカの三次元的な「リアル」さと、アクション・カットであってもオリジナル・デザインが崩壊せずクオリティを担保できるという意味では、美術やデザイン部門にもありがたい。

こうして大ざっぱに列挙してみると、3Dが使われる理由には、ボリューム感、リアル感、ポージングしやすさ、そしてフル・フレーム・アニメーションのスムーズさ等が挙げられる。客観的に考えてみると、2Dのリミテッドなアニメと比べて、3Dアニメーションは映像のクオリティが高くなっていること、つまり「リッチ」な視聴体験が求められていることの裏返しでもあるだろう。

興味深いのは、以上のように3Dが能力を発揮するケースがいくつもあるのに、日本のアニメでは、その多くがじつに2Dとのハイブリッド的な表現に落ち着いていることだろう。どういうことか。

2Dのように使われる3D

日本のアニメ業界で使われる3DCGは、逆説的に、その表現の到達点が2D的な見た目に寄せられている。はじめから2Dの案件に部分的なCGが使われる場合には、当然2Dとのバランスが求められるわけだが、3D技術を制作主体にしたアニメにおいても、3Dを下敷きに2D作画のような強いアウトラインが求められたり、ハイライトや影もグラデーションのないフラットな作りが好まれたりする。

言い換えると、先述の用語を援用するならば、日本では3Dを基礎としながら、写実的(フォトリアル)な表現よりも、非写実的(ノン・フォトリアル)なほうが一般的である。この方式は、セル画風作画アニメにちなんで「セル・ルック」という呼称で親しまれている。

しかしながら、3Dの方法論を採りながら、2D的な表現を求めるとなると、それなりの制約が課せられる。

ここまでの流れで言えば、ディズニーに代表される北米の事情であっても、3Dはあくまでも2Dアニメーター不足を補うツールとして導入されてきたという意味においては、2Dと同様のアウトプットに寄せていくことが目標として据えられていておかしくないだろう。

しかし、2000年代初頭の状況と異なり、4KやIMAXといった視聴環境の発展と、私たち消費者が求める「リッチ」で「リアル」な視聴体験が打ち出してきた商業的な成功事例に揺さぶられ、3Dは独自の美的表現の道を歩んできた。

このトレンドに則れば、「アニメ」のキャラクターに求められる強い輪郭線や、自然の摂理からかけ離れたボリュームのない髪の毛、キャラクターの横顔では彫りの深さがありながら角度によっては薄っぺらい顔のパーツでいかに演技させるかという狙いは、いささか矛盾していると言えなくもない。

それ以外に、2D的な表現では、キャラクターのポージングや動きをつけるアニメーションの段階で、アニメに欠かせない外連味(ケレン味)を出すために用いられるご都合主義的な演出技法が援用されるため、3Dをそのまま活かすことは難しい。

例えば、2Dアニメには透視投影と並列投影が入れ混じっているため、3Dのリアリズムに当然の直接的な遠近法が当てはまらないから、コンピュータの計算では解に至らない。

さらに、3Dで作る小道具や大道具は、仮にエピソード内のたった1カットでしか使われないものであっても、わざわざモデリングする必要がある。2Dのようにその場で描いて、とっさに追加することは叶わない。

このように、結局2D的な表現に落ち着けるのであれば、日本の制作現場は、何故3Dというメソッドを通過しなければならないのだろうか。

それは単に海外のトレンドを吸収し、3Dのノウハウのあるスタジオやスタッフを採用したからなのだろうか。

それとも予算組みの段階で、制作スタジオが「3Dは諸事情により2Dよりもコストがかかる」と提案し、それが出資者の間でまかり通ってしまうデジタル黎明期から未だに私たちが抜け出せていないからだろうか。

翻って考えると、日本人的なアニメ視聴の矛先がむけられた「リッチ」と「リアル」というものは、本当に、3Dが提案する「リッチ」と「リアル」と接続できているのだろうか。筆者はここで、写実的すぎる『ライオン・キング』が示した成績が、少なくとも別の結論を導き出すヒントになっていると仮説を立てている。

ディズニーのリアリズム=「嘘を本物っぽく見せる」

1930年代後半、今日まで残るフォーマットとしてディズニーが確立したアニメーションは、絵をリアルに動かすという基本的概念に裏付けられていた。

アニメーションは戦後しばらくの間、日本では「漫画映画」と呼ばれることになるが、その代表的な論者である今村太平の『漫画映画論』によると、ウォルト・ディズニーが他と決定的に異なっていたのは、本来なら止まっている絵があたかも魂を宿し、本物らしく動いているということだった。

これはどのように成し遂げられるのだろうか。

20世紀、産業革命が発展させたマニュファクチュア(工業制手工業)により、より多くのモノを生産するために分業が行われ、それぞれの担当者が従事する作業は細分化され単純化された。

今村によれば、アニメーションは、実写のように人や風景をカメラで撮影して並べた映像よりも、人間の最も原始的な「動かない絵」を動かしたいという、驚異的かつファンタジックな願望を叶えるものだったという。

絵を動かしたい衝動はマニュファクチュア的な労働とマッチして、大量の枚数が必要となるアニメーションを作るには、それぞれの絵のクオリティをできるだけ均一にして分担作業すれば大量生産できることになる。

こうしたマニュファクチュアの性格は、人の力を抽象し、システマティックに配置することから、今村風に言えば「人力の機械的な組み合わせ」と呼ぶことができる(※2)。だが、いくら単純化された作業であっても、一枚一枚を描いてゆくことは、人の能力の個体差に影響を受けることになる。「絵を動かす」とき、分業制によって滑らかに動くアニメーションをたくさん生産できるということは「仮定」でしかなく、納品物の動きの確かさを裏付けるものではない。

もちろん、概念としてのマニュファクチュア的な分業は、資本主義的な目標をより多く達成するために導入される機械工業の先駆けとなる。機械工業は文字通り機械を用いるため、例えばカメラを使ってあらゆるものの動きを撮影してから、スクリーンで再現することができるようになる。当然のことながら、カメラで撮影された運動は、人の想像で描かれたアニメーションの運動と比べて、はるかにリアルである。

このリアルな運動を下地にして絵を動かす技術は、すでに1919年にマックス・フライシャーによって発明されている。いわゆる「ロトスコープ」という技術だ。

このロトスコープであるが、当時はガラス面に裏側から実写映像を投影して、手描きで1フレームずつトレースしてゆく手法が採られていた。基本的な概念は今も変わらない。この手法によって、カメラで撮影されたリアルな運動を、アニメーションに転用することができるため、人のイマジネーションが生み出す「仮定」の運動に依存しなくて済む。

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マックス・フライシャーのロトスコープ特許申請時の図案。

歴史的な瞬間は1937年の『白雪姫』で訪れた。

ウォルト・ディズニーはロトスコープの技術を全面的に採用し、主人公クラスのアニメーションは実写で演技を収録してからトレースしてリアル感を表現した。

頭身が低かったり歪な形をしていたりするキャラクターについては、様々な映像資料を参照し、アクションやアニメーションの動きだけを抽象して取り出し、それを下書きにして作画していった。例えば同じ『白雪姫』でも、一連の7人の小人のシーンはリアルなアニメーションの要素がキャラクターに充てられている。

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左:『白雪姫』のロトスコープ ©️Disney / 右:7人の小人。『白雪姫』より ©️Disney

この時、マニュファクチュア的に分業化されたシンプルな作業と、機械工業的な要素が合致して、アニメーションのリアルな表現と生産性が両立される。言い方は悪いかもしれないが、手で描いた絵の、作り物としての存在論が「嘘」であるとすれば、この「嘘」は写真的なリアリズムに裏打ちされることで、「本物」らしい動きが実現したのである。

ウォルト・ディズニーが求めた、命が吹き込まれたかのようなアニメーションには、こうした機械の援用が不可欠だったと言えるだろう。この方法論は、今日、CG作品のアニメーションによく使われるモーション・キャプチャーを基礎に2D作画を行うというトレンドの先駆けだと述べても不自然ではないだろう。

没入型エンタテインメントへ

リアリズムを追求したディズニーの一つの最高地点は1940年の『ファンタジア』に見られた。本作はフィラデルフィア管弦楽団が演奏するクラシック音楽との共演を基礎とした、ほぼ台詞のない8編から成る実写+アニメーションのフュージョン作品だ。

『ファンタジア』は極めて野心的な作品で、全体を俯瞰すると、章ごとに様々な映像的な実験や描画の様式が発見される。

序盤の「トッカータとフーガ ニ短調」の短編では形状や具体性を持たない筆跡や光線といったエレメントが、カンディンスキーの絵画を動画化したような様相で現れる。

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トッカータとフーガ ニ短調 『ファンタジア』より ©️Disney

チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の短編では、花や植物が極めてスムーズかつリアルに擬人化されたダンスが続き、まさにロトスコープの技術がもたらされたことによるアニメーションの真骨頂を体感できる。

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くるみ割り人形 『ファンタジア』より ©️Disney

その次、ミッキーマウスが登場する「魔法使いの弟子」は、白雪姫でディズニーが到達したキャラクター・アニメーションの奥行きを見せつけ、その後オーケストラの舞台に登場するミッキーは指揮者ストコフスキーと握手する。後半のファンタジーな作品や恐竜が登場する短編では、手描きではあるが、2Dの平面にリアルなボリュームを持たせたシェーディングも見受けられる。

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左:指揮者とミッキーマウス / 右:恐竜のリアルなシェーディング。『ファンタジア』より ©️Disney

『ファンタジア』は、ディズニーが理想としたアニメーション視聴体験の全容を浮き彫りにした。まだ開発段階なのに、ディズニーは再放送の暁には新たな素材を追加するアイデアを出していた。

他には、「トッカータとフーガ」の短編ではダンボール材で作ったゴーグルを会場に配る3Dの実験を考えていたし、劇場での体験が一回的な特別なものになるように、例えば「くるみ割り人形」の花のダンスに合わせて、花の香りを劇場へ充満させることも計画していた。

最後にディズニーがRCAと開発した「ファンタサウンド」というサラウンド・システムがある。録音は8チャンネルで行い、ミックスダウンして光学式3チャンネルを記録した音声専用フィルムを複数のスピーカーで再生するという、極めて野心的なシステムだった。

単なるステレオ・システムとしても『ファンタジア』は歴史的な作品であるが、それに飽き足らず、ディズニーはサラウンド・システムを考案した。しかしシステムのインストールや設定に極めて時間と空間を要するため、通常の映画館では対応できず、したがって「劇場」での公開となった。

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「ファンタサウンド」による上映のチラシ。©️Disney

この作品がどのように評価されたかはさておき、ディズニーにとって、リアリズムの追求はアニメーションのファンタジー世界と現実世界との境界線を超越するようなアプローチだった。今の言葉では、より「没入」できるコンテンツということになるだろう。

以上のように、ウォルト・ディズニーがいかにリアリズムを追い求めていたかを念頭に置くことができれば、テクニックやテクノロジーなど技術的革新によって作り出されてきたリアリズムの延長に、現在の3Dを駆使した表現が見え隠れしていることは決して想像に難くない。そして、彼の夢がディズニー・ランドという現実のものに結実したことは、言わずもがなである。

記録映画 vs. 劇映画

日本アニメのアクチュアリティ = 「本物を嘘っぽく見せる。」

戦後の日本映画界では、旧来の「劇映画」に対して「文化映画」という対照的な構図が誕生していた。前者は、創作された物語を俳優が演じる、いわゆるフィクションの商業映画である。一方、「文化映画」は記録を主眼に置き、モンタージュやカットバックといった、海外から到来した撮影・編集技術を用いた言語化のテクニックによって、ストーリーが視覚的・空間的に展開してゆく。

劇映画は文字通り「劇」を冠しているため、物語が演じられる場所はセットやステージのような性質を持つ。極論を述べれば、劇映画は決めれた場所で演じられる題目をカメラで収録していることと変わらないため、無限の再現性という限られた用途以外、映画メディアとしての必然性が欠如している。しかもその物語は、現実から断絶されたセットやステージというエンタテインメントの場に向けられて書かれた、純粋な創作である。

「文化映画」というのは、はじめ戦前の統制下の映画法に定められたジャンルであり、教育、科学、観光、そして戦時中の占領地域の記録映像に絞られていた。その目的は「国民精神を涵養し、国民知能の啓培することであり、劇映画にあらざるもの」と丁寧に劇映画を排除している。(※3)

「文化映画」に創作はなく、すべて実際に現実世界で生じている現象をカメラによって収録し、編集して映画として上映されるものだ。素材はリアルであり、嘘はない。そのため「文化映画」は戦後になって「記録映画」的な撮り方のお手本として、作品のリアリズムを持ち上げる手段になる。

劇映画では主役が脚本家や俳優の演技であるのに対し、記録映画では、映像監督の演出力や編集力の手腕が問われる。モンタージュやカットバックといった映像技術は脚本や演技を代替することができるだけでなく、観る側の読解力も呼び込んで、より効果的にメッセージを伝えることが可能になるため、表現芸術に問われる芸術性の高さも評価されたことから、映像に関わる者らの関心事だった。

さて、「記録映画」とは、いわゆるドキュメンタリーである。なぜドキュメンタリー志向のほうが、映像としての芸術性が高いとされていたのか。

ドキュメンタリーは、実在するリアリズムをカメラで撮影することから、素材として手に入るものは「偶然」と言ってよい。その偶然に集まった素材をモンタージュ的に切り貼りすることで、ストーリーが紡ぎ出される。つまり、偶然の連続の中に、ある「必然」を生み出すというテクニックだ。

戦時下の「文化映画」の製作者らにとって、このドキュメンタリーのテクニックは、技術論や撮影術などマルクス主義的な映画運動の流れを汲むソビエトの映像美学が「前衛」だと評されていたことから、「芸術性」の高さという文脈にリンクしていたと考えられる。

まんが原作者・評論家の大塚英志によれば、「『記録』であることが『芸術」であるのは、戦時下の映画理論においては時代劇、喜劇や大衆小説を原作とする『劇映画』よりは芸術として優れているとされていたからである」ということだ。(※5)

ドキュメンタリー的な撮り方の例を一つ挙げてみよう。戦前・戦後とまたいで映像論や舞台論の言説で活躍した花田清隆は『新編映画的思考』の中で、『戦場にかける橋』(1957年)のショットに触れている。

その一連のショットでは、脱走したウィリアム・ホールデンが力つきて倒れたとき、カメラは遠景の木に群がる禿鷹のような猛禽類を捉え、次に彼の頭上にその影が映り込む。不安を誘う音響もあり、観る側はきっとホールデンは襲われるに違いないと思う。ホールデン自身、怯えた様子で地を這ってゆく。最後にその猛禽類が眼前に現れる時に、それがじつは原住民の子供が遊んでいた凧であることがわかり、ホールデンは人里に迎え入れられ、九死に一生を得る。

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脱走するウィリアム・ホールデン 『戦場にかける橋』より。©︎1957, 1985 Sony Pictures

花田は、このように鳥と鳥の形をした凧とが重なり合って、偶然のつながりのように物語が形成されるような、ドキュメンタリーとフィクションの見事な融合について触れていた。(※4)

つまり、ディズニーのように単純化した作業で描かれた絵に写実的な運動を与えるベクトルが「嘘を本物っぽく」見せるリアリズムだとしたら、日本で戦後に議論されてきたドキュメンタリー方式の映像作りが目指すものは、偶然に集められた素材を並べて、一つのストーリーを編みあげること、つまり「本物を嘘っぽく」表現するという方向性になるだろう。

筆者は、ディズニーの写実的「リアリズム」を、用意されたステージの上でかぎりなくリアルに動く劇映画のカテゴリーとして括り、日本が見出した「記録映画的」方法論を、リアルさは欠けるものの、効果的にリアリティを高めているという意味で、実際的「アクチュアリティ」と呼びたい。

この区別の因子となるものは、別段、新しいわけではない。

花田清隆は、この区別に気づいていた。花田は、今村太平と岩崎秀夫がイギリスの映画監督ポール・ローサの映画批判の中で明らかにリアリティとアクチュアリティの差に気づいていたことを指摘している。

その中で花田は、今村と岩崎が劇映画の対象はリアリティ(必然)、記録映画の対象はアクチュアリティ(偶然)と区分していたことに言及している。もちろん花田は、彼らがこのトピックを入念に議論しなかったことを残念がっているが、結局、花田も最終的にはリアリティとアクチュアリティを書き分けず、単に「現実」と括ってしまった。(※6)

ここでおそらく読者は「アクチュアリティ」とは何か、写実的ではなく「実際的」とはどういう意味か困惑しているかもしれない。先に進んでみよう。

日本の視覚芸術の平面性

「アニメ」を含む日本のあらゆる芸術の基礎では、日本独特の視覚的ボキャブラリーである「平面性」が決定的な役回りをしている。

話をわかりやすくするため、私たち現代人には疎遠になりつつあるかもしれないが、伝統芸術である、能、歌舞伎、日本庭園、日本画を例に挙げてみよう。これらのフォーマットには、西洋の遠近法や明暗の描き分けなど、自然の摂理を対象的に捉えるような技法が当てはまらない。

日本の芸術は元来「見立て」を一つの重要な共通感覚として、より拓けた読解が可能なコミュニティ形成を図っている。「見立て」は観る側の想像力を掻き立てる装置であり、発信側にも増して受信側にも大きな役割を課する双方向的な文法である。

これが立ち上がってくるには、ある条件が必要だ。「見立て」を可能にするには、西欧の写実的に「捏造された」リアリズムよりも、舞台や紙といった素材の「真実」が、ありのまま曝け出されている必要がある。

舞台は無限の奥行きを持つ現実社会とは異なり、演じる場として切り取られたキャンバスである。絵を描くための紙にしても、そこに現実の奥行きは存在しない。デジタル画像であれば、重量や物質すら存在せず、単なるデータの集合から電子的にその都度再現されるのみだ。

極端な例を挙げると、表面的なレベルでは能の舞台の背後にはきまって松が描かれているだけだが、演出のレベルでは、鼓の効果音や呼びかけなどシンボリックな変化が起こることでモードが変わり、ストーリーが動き出す。舞台や素材がイリュージョンのない、ありのままの姿まで還元されれば、その上に描かれるものはミニマルな動作や掛け声であっても、際立って見えてくる。

能面は表情が変わらない均質的なものだが、能役者が傾けるごくわずかな仕草で喜怒哀楽や情景が多彩に表現される。舞台上のスタッフの配置も独特だ。歌舞伎の黒子や、能では後見と呼ばれるサポート役は、全く身を隠すことなく立ち回っているが、舞台の上には居ないとものとして見立てられている(※7)

日本絵画では、光と闇は描き分けられていない。暗い背景であっても、白地の余白のままで暗いことが示唆されている。能や歌舞伎でも同様で、舞台の上はまんべんなく光が当たっており、欧米の舞台で一般的な、闇から光を浮き立たせるような立体感を演出していない。

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筆者撮影:狩野山楽「襖絵」(重要文化財)©️正伝寺

アニメに置き換えてみよう。例えば大塚康生に言わせると、こうした日本特有の心情を抑えた控えめな演技や、すぐに省略語を作ってしまう日本人の性格からして、日本人は北米のように語りと演技による表現よりは、静止画のようにポーズで演技をする。決めのポーズから次の決めのポーズまでの間の動きは重要視されない。(※8)

次に日本庭園を見てみると、例えば歩行する道筋に敷かれた飛び石を観察してみると、入り口から奥に向かって、少しずつ石の大きさやピッチが小さくなってゆく。これは庭の限られた空間に奥行きを持たせるテクニックである。もちろん、手前から奥を「平面的」に見た時の視覚的効果である。

最後に「借景」に触れてみたい。日本庭園では、移動するたびに変容する自然らしい特徴を際立たせるためもあるが、それぞれの立ち位置から「平面的」な一枚絵として切り取った情景や物語を演出するために、敷地の外にある木々や遠方の山系、もしくは建造物を視覚的な要素に分解して「借景」として利用することがある。

枯山水の庭であれば、宇宙を示す方丈の敷地に置かれた石を山と見立てたり、敷き詰められた砂利は水として見立てられたりする。

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筆者撮影:方丈(重要文化財) 伝:小堀遠州(作庭)©️正伝寺

以上のどれも、まさに素材の真実を曝け出し、その上にあぶり出された構成要素が観る側の想像力に触れて立体的になり、呼吸をしだす。

リアルなものを嘘っぽく表現しているが、それはアクチュアルに体験されているのだ。大塚康生が原画で参加した『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)においても、美術を担当していた芸大日本画卒の小山礼司の方針で、「マッスよりフォルム(立体感より平面性)を重視する様式で新機軸を打ち出す」ことになっていた。(※9)

日本の芸術では、第一に奥行きのない表面に描かれた薄っぺらなものの真実がある。その上で画を構成する要素が決まりごとのように様式化され際立ちながら、単独または集合として平面に想起され、並列され、対比されるとき、観る者の想像力がストーリーを描き出してゆく。

観念の時間

このことは、『十二世紀のアニメーション』(徳間書店)の中で、高畑勲が日本最古のアニメーションと呼ぶ絵巻物、『信貴山縁起』や『伴大納言絵巻』に見出される特徴にリンクしていく。

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作者不明「信貴山縁起」(12世紀頃の作)

絵巻物を右から左へスクロールして眺めてみると、同じ人物が幾度か登場したり、建物には屋根が無く壁だけだったり、もっと進むと屋根や縁側が現れたりと、奇妙な現象に気づくだろう。

これは高畑が「時間的経過の空間的表現」という言葉で評価するように、同じ一枚の静止画の中に、時間的経過が描かれており、そのストーリー展開によっては、建物の室内にいる人物らの会話を見せるために屋根が取り払われたり、空間が捻じ曲げられて、壁の裏側の様子が描かれたりする。もちろん西洋的な遠近法や自然の摂理に基づいたルールは否定されている。

確かにこの手法は「写実的(フォトリアル)」ではない。しかし、実際的、アクチュアルである可能性はある。

今村太平は、映像メディアに共通する時間的進行に、「観念の時間」という概念を導入していた。今村にとって絵巻と実写には根源的な差異がない。たとえ絵巻の一枚の絵の中に描かれた事象は動きのないものであっても、カメラで撮影された実写の1フレームの画像もそれ自体に動きはない。これらがストーリーを描き出すのは、時間的に次の絵へと連続した時である。ただし、それが単なる事象の運動として描かれた、または撮影されたものであれば作品にはなりようがない。

今村にとって作品が立ち現れるのは「人の観念」が作用する時である。絵であれば人物のポーズや表情の移り変わりや、建物の裏側の様子を描くことで、リアルな時間的進行では回収しきれない観念の時間が誕生する。カメラで撮影したものであれば、二重露出やカット・バックなどの技法で描くことができる。「絵巻と映画は、このような観念の時間的進行を造形的視覚的に表す芸術」である。(※10)観念の時間はリアルタイムの1分1秒とは異なり、まさにアクチュアルな時間の流れである。

高畑の言葉を借りるとすれば、絵巻物は稚拙なものに見えつつも、いつも「現在性」を表現した、高度なメディアである。

連想、想像力

繰り返すが、日本の表現は、スクリーンの向こうには奥行きがない平面性の「真実」を伝えながら、その真実の組み合わせによってアクチュアルな体験が創発されている。

東映動画時代、大塚康生と同僚の月岡貞夫はリアリズムについてよく語ったとされ、彼らが目指していたのは「あくまで現実の生き写しではなく、現実を連想させる動かし方」だったという。彼らからすれば、リアルなものや独創的な動かし方は人に押し付けることができるものではなく、ウソでも観客の共感を得る動きの説得力は必要だという。(※11)

大塚は逆にディズニーの制作環境を引き合いに出して、『ファンタジア』では専門家が集められ、恐竜の骨格や推定される重量などからアニメーションに使う動きが研究され、その結果「春の祭典」の短編が出来上がったと述べている。当時の制作現場の事情を知る今村太平によると、ディズニー作品の5分間には7,000枚以上の絵が使われ、300人の分業で描かれている。とりわけ『白雪姫』では700人のアニメーターが動員されたと言われる。(※12)

当然、日本のアニメの予算ではそのような贅沢はできない。リアルではないかもしれないが、観客が共感できるアクチュアルな結果を求めて、日本ではすべて想像しながら描いてゆく。そのため時間の引き伸ばしや、切り返しのカットを重ねるカットバックなど、撮影術の技法を駆使するようになる。(※13)

映画撮影術:モンタージュ

ハリウッド黎明期に映画の父と呼ばれるD.W.グリフィスという映画監督がいた。彼はクローズアップやカットバック、そしてモンタージュといった、映像表現には不可欠な技法を次々と発明した、映画界で最も重要な人物の一人である。

彼は撮った素材をこうした技法で組み合わせて、ショット内の時間軸をも改変しながら、映像に奥行きと言語的な意味を持たせることに成功した。

特にモンタージュの技法では、グリフィスは同じショットをいくつかのアングルで撮影することで、ダイナミックな表現の境地に到達した。

同時代、ソ連にはセルゲイ・エイゼンシュテインという映画監督がいた。『戦艦ポチョムキン』や『十月』は現代でも学ぶところの多い金字塔的名作である。彼が日本の映像表現に遺したものは大きい。

エイゼンシュテインは、『映画の弁証法』(1932)で、日本語の漢字の構成に注目している。彼によれば、漢字の「へん」と「つくり」はそれぞれ象形文字として捉えられており、それらの組み合わせが表出させる表意文字は、単なる「合計」ではなく、「積」であると言う。(※14)

それぞれ独立した意味を持つ部分同士がぶつかることで、つまり対話をすることで、全く別の意味が生じるという現象に、独自の映像的な表現のヒントを得ていた。

エイゼンシュテインによれば、例えば水をあらわす絵と目の絵が結びついて「涙」をながすことを意味する。

同じくロシア人のユーリ・ノルシュテインが1971年に手がけた『ケルジェネツの戦い』では、受身形のモンタージュが駆使された。

戦時下の状況を描写するタスクがあったとして、おそらくハリウッド映画であれば軍隊の準備や行進をパンフォーカスで撮り、破壊される都市を俯瞰で撮りCGの効果を追加するだろう。逃げ惑う市民たちにも多くの人物が動員され、苦悶の表情や叫び声で情感を上げてゆくかもしれない。

しかしノルシュテインの場合、人よりも人の営みに焦点を当て、人々の生活が突如として変化したことを描写して同様の効果を出している。「召集の鐘が鳴る。農具は畑に、斧は木にささったまま置き去りにされ、はじまろうとしていた一家団欒の食事は打ち捨てられ、ついいましがたまで揺られていたであろうユリカゴから赤ん坊は抱きとられていった。」(※15)

アニメーション頂上決戦12-min

上:斧 / 下:ゆりかご ユーリ・ノルシュテイン『ケルジェネツの戦い』, 1971年 ©︎Yuri Norstein

こうした営みを描くことで、ストーリーは観る者の想像力の中でさらにヴィヴィッドさを増してゆく。これこそがモンタージュの根本的な考え方であり、日本のアニメの演出に必要不可欠な決定的な方法論である。

アクチュアルな画作りへ

高畑勲は『映画を作りながら考えたこと』(2014)に収録されている大塚康生と小田部羊一との座談会で興味深い比較を行っている。アメリカの低俗な劇映画よりも、アニメのほうがリアリティにこだわっている節があるというくだりだ。

過去にアニメ企画として浮上した「ゴジラ」があったそうだが、ついさっきまでビルの谷間を豪快に進んでいたゴジラが、サーカスのテント小屋の中で綱渡りをして、穴に落ちてしまうというカットがあったという。つまり、極端にゴジラのスケールが縮減してしまっている。(※16)考え方を変えれば、これも演出的な意図を視覚的に表現するための、一種のモンタージュである。

その他に「キングコング」を例に話が進んでゆくわけだが、高畑によればアメリカの映画にはこのようなご都合主義が蔓延しているという。

ここで座談会の話題は『じゃりン子チエ』(1981-1983)に移ってゆく。この作品では、最後の決闘のところで、ネコがとてつもなく大きくなるカットがある。チエが抱いていても大きいのがわかるという。

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上:巨大化前 / 下:巨大化後『じゃりン子チエ』(劇場版)1981年 ©︎キティ・ミュージック、トムス・エンタテイメント

ここで高畑も大塚も小田部もこぞって「リアル」と「リアリティ」は違うと口を揃えて発言し、高畑は「このシーンでネコは精神的な意味でまったく人間と同じ、いや、それ以上のものになってくるんです。だから、どんどんネコに感情移入していけば、必然的にネコが人間並みに大きくなっていくんです。表情も人間的になってきている」と述べて、リアリティの大事さを強調していた。(※17)これこそが、モンタージュの威力が発揮された実例である。

筆者にとって、彼らの言う「リアリティ」はまさに「アクチュアル」と同義であり、例えば『カリオストロの城』でルパン一味がFiat 500にぎゅうぎゅう詰めで乗車しているシーンは、決してリアルではないが、激しいアクションの臨場感はアクチュアルに体験される。

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『ルパン三世 カリオストロの城』1979年 ©︎トムス・エンタテイメント

ここで注目したいのは、「ゴジラ」や「キングコング」のように素材の質感や特撮の撮影手法が生み出す「写実的」な効果と、実際に視聴する側が受け取る印象には乖離があることだ。ストーリー重視の、映画撮影術のない画作りには、画面上にアリバイ程度に並べられている表面的なリアリズムはあっても、アクチュアルさがあるとはかぎらない。

逝去から10年が経ち、今も惜しまれる今敏が遺した一節がある。

今敏は、「写実的に描いたからといって、リアルになるとは絶対思わない」と述べ、美術評論家・青山二郎の言葉を引用しながら「優れた画家も詩人も、美を描きえたことはない。美は描くものではなく、それを見た者の発見であり、創作である」として、そのまま「美」を「リアル」に置き換えても通じると発言していた。(※18)

ビジネス・チャンス

本稿は、ディズニーに代表される北米式のリアリズムに対して、日本のアクチュアリティをぶつける形で対照性を見出そうという試みだった。

北米のアニメーションを演技と台詞を主体とした「劇映画」と位置付け、環境的要因とリアリズムを求める指向性から、登場するキャラクターや情景の描写はより写実的な道筋を進んできた。一方、日本のアニメは平面を基調とした独特の視覚的文法に則り、限られた予算の中で映像技術や演出術を駆使して構築される「記録映画」の位置にあることが見えてきた。

芸術性でいえば、日本のアニメに軍配が上がることは誰の目にも明らかだ、と筆者は断言したい。しかし、ディズニーは2019年だけで実写も含めた興行収入1兆2,000億円(USD$11.1億ドル)の売上を叩きだしている。ビジネスの成功は、私たち人間が経済的な存在である以上、決して無視できない重要な指標である(※19)。

アニメーション映画のみに絞ってみても、ディズニーの興行収入は恐るべき成績を残している。賛否両論の『ライオン・キング』と『アラジン』を省いて『アナと雪の女王2』『トイ・ストーリー4』の二作だけで2,600億円以上を弾き出している。

仮にグローバルの興行収入だけで日本のアニメ映画のトップを見てみると、20年前の『千と千尋の神隠し』や2016年の『君の名は。』だけしか、350億円規模のヒット作品は出ていない。つまりディズニー・アニメーションの年間売上に達するには、これくらいのメガヒット作品が年間7本もリリースされないといけない計算になる。

次回は、こうした商業的なデータを加味しながら、アニメがいかにビジネスとして立ち回れるのかを考察していきたい。そこでは、「2D」と「デジタル」という二つの言葉が大きな意味を持ってくる。

(つづく)

< 出典 >
(※1)Sarah Whitten, Disney calls ‘The Lion King’ live-action. The Golden Globes just nominated it for best animated feature
(※2)今村太平,『漫画映画論』, 音羽書房, 1965年, p.6
(※3)映画法(昭和14年発布、昭和20年廃止)(第35条)では、文化映画は「國民精神ノ涵養又ハ國民智能ノ啓培ニ資スル映畫ニシテ劇映畫ニ 非ザルモノ」と規定されている。
(※4)大塚英志, 『手塚治虫と戦時下メディア理論』, 星海社, 2018年, p.108
(※5)花田清輝,『新編映画的思考』, 未来社, 1962年
(※6)同上, p.114
(※7)ディズニー・ランドでは、完全なるファンタジー世界の(作り物の)現実(リアル)を守るため、園内には一切の汚れやゴミを発生させず、従業員は全員着ぐるみか衣装を着ている。能のような「見立て」は存在しない。
(※8)大塚康生,『作画汗まみれ(改訂最新版)』, 文藝春秋, 2013年, p.144
(※9)同上、p.117
(※10)今村太平, p.129
(※11)大塚康夫, pp.127-128
(※12)今村太平, p.20
(※13)大塚康生, p.128
(※14)セルゲイ・エイゼンシュテイン, 『映画の弁証法』, 角川文庫, 1953年(原著1932年発行)
(※15)高畑勲,『映画を作りながら考えたこと』, 文藝春秋, 2014年, p.356
(※16)同上、p.197
(※17)同上、p.198
(※18)『広告批評 No.260(2002.05)』, マドラ出版, 2002年, p.62
(※19)Adam B. Vary, Disney Explodes Box Office Records With $11.1 Billion Worldwide for 2019

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